花の窟


九日目

ふわふわと体が浮くような感じで、ゆっくりと草の上を揚羽は歩いていた。
ここは奇妙な所で、風がまったくない。
閉じられた空間のような空気の淀みを感じるのに、まったく果てが見えないのである。
どこまでもどこまでも、草原と淡い黄色の空が続いている。
花もなければ岩もない。木々もない。
けれど、そこはとても居心地が良かった。
ずっと、ずっと歩いているうちに、草の中にうつ伏せになって、声を堪えて泣いている人を見つけた。
とても辛そうに泣いているので、しばらく揚羽は声をかけられず、じっと側に立っていた。ここがどこなのかも分からず、別にしたいこともなかったので、ただ側にいた。
『あなたは誰なのですか?』
 やがて揚羽の気配にきづいた女がゆっくりと顔をあげながら、揚羽に尋ねた。
 揚羽はその声を聞いて驚いた。
 まるで自分と同じ声、同じトーン。
 振り仰いだその顔は、やはり自分と同じ造りをしていた。
 ただその髪や目の色だけは、自分と違って黒かった。
(葛葉だ)
『・・・・・・わたくし?』
 葛葉の方も、揚羽を振り仰いで、驚いたような顔をしている。じっと泣いて濡れた瞳で、揚羽を見ている。
『揚羽って言うのよ。あなたは葛葉でしょう。どうして今ごろあなたがここにいるのよ?こんな所で何泣いてるの?』
 叱るように揚羽が言う。
 自分が逃げてしまったから、てっきり表には葛葉が出ているものだと思っていたから、まさか泣いている女が葛葉だとは思わず、じっと側にいてしまった。
 よく考えてみると、ここは自分の心の逃げ場所なのだから、自分以外にいる人間といえば葛葉以外にいるはずがないのだ。
『あげ・・・・・・・は?』
『そう、もう一人のあなた。あなたが隠しているもの。あなたは私のことを知らないだろうけど、私はよーく知ってるの。いい、もう一度聞くわよ、なぜこんな所にいるの?』
『わたくし・・・・・・考えているのです。嘉吉様に言われた言葉を、ずっと考えているのです。わたくし自身に問えとあの方はおっしゃったわ。だから、わたくしは・・・・・・なのに昨日突然、穢れがわたくしを襲ってきて、わたくしの髪、わたくしの目、黒くなってしまった・・・・・・こんな姿では山神様には二度と会えない』
 混乱しているのか、自分の黒い髪を見て、再び泣き出した葛葉は、揚羽の言葉に深く疑問をもたずに受け入れた。
 いつもの頑固で譲らない葛葉とは違う。
 頼りなげで、今にも風に吹かれればそのまま消えてしまうそうなぐらない、存在感が薄らいでいる。
『どうしたって言うの?あなたは確かに弱い臆病者だけれど、それは山神に対して、いいえ、私に対してだけだったわ。それ以外のあなたはそりゃあ凛としてて、強い女だったわ。だから、だから私は・・・・・・自分が逃げても平気だと思った。嫌なこと押し付けるけど、あなたならそんなものへっちゃらで乗り越えていけると思ったたんだもの』
 一緒に葛葉の隣に腰を下ろしながら、揚羽が泣いている葛葉の頭をそっと撫でた。
 不思議な気持ち。
 奇妙な感じ。
 あんなに嫌悪していた存在だったはずなのに、本当は心のどこかで信じていた。
 強いから大丈夫だと勘違いしていた。
 葛葉も揚羽も、どちらも同じ者だと言うことなど忘れていたから。初めて近くで触れてみて、気づいた。
 こんなにも近しい、こんなにも同じ心を持った、愛しい自分自身だったということに。
『ごめんね、葛葉』
 突然、隣で謝られた葛葉は、驚いたように揚羽を見た。
 じっと見てから、思い当たる自分の心臓の位置に手をそっと重ねた。
『あなたが・・・・・・ここで泣いていた?』
『泣いていたわ。山神の側にいたくて、離れたくなくて、あなたを憎んで嫌悪して、泣いて喚いて悪態をついてた。私のこと見て見ぬふりをするあなたが本当に大嫌いだった。一生閉じ込めておけるものなら、ずっと私が表にいて閉じ込めていたかった。けど・・・・・・あなたの方が本物なんだね。その姿みたらた分かるわ。穢れを受けたのは私のはずなのに、穢れは私自身には訪れず、本物のあなたに訪れた。私は葛葉がずっと羨ましかった』
 そう言って泣きそうに顔を歪めた揚羽を、今度は葛葉が懸命に抱きとめた。
 慰めるように、何度も何度も頭をなで、髪をすいてくれる。
『わたくしの方こそ・・・・・・あなたを閉じ込めていたんだわ。見ないふりをしたわ。気づかないふりをしたわ。ごめんなさい。でなければ、山神様の側にはいられないと思った。愛しているなんて言ったら、わたくしは側に置いていただけなくなると思った。あの方は辛い思い出をいまだ胸に残しておられる方だから、絶対にわたくしのことなど受け入れてもらえないと思ったわ。だから、わたくしのこの気持ちは純粋な信仰なのだと自分に言い聞かせていたわ。離れたくないのはただのわたくしの我儘』
 葛葉の気持ちがだんだんと揚羽の強い思いを吸い取って、光輝いていくのが感じられた。目を逸らしていた『揚羽』という名の愛する心を真正面から捉え、受け入れようとしている。
『葛葉・・・・・・山神を愛している?』
『ええ、お慕いしているわ』
『たとえ、受け入れられなくても?』
『ええ、それでもずっと』
『山神を決して一人にしない?』
『ええ、ずっと側にいるわ』
 確認するように、揚羽は葛葉の頬を両手で挟み引き寄せると、自分の額と葛葉の額とをコツンと合わせた。
『もう二度と、私から目を逸らさないでね』
『ええ、もう二度と逃げないわ。わたくし、あなたのこともきっと大好きなのですもの。なぜあんなに恐れていたのか、今なら分かりますわ。愛することは穢れることだとわたくしは思っていたから・・・・・・女になるということは、人になるということだから。でも、あなたに会った今、わたくし少しも怖くないわ。穢れを持つわたくしが、本当のわたくしなのですものね』
 そう言って葛葉はいつもの凛とした目で涼やかに微笑んだ。
『私たち戻れるかな?』
『大丈夫。きっと戻れるわ。二人で戻って山神様を驚かしましょうよ』
『二人で戻る?』
『・・・・・・待って、声が聞こえるわ。呼んでる?叫んでる?』
『・・・・・・泣きそうな悲しい声ね』
 二人はどちらからとも言わずに口を噤み、耳を澄ました。

【山神のためなら何でもすると言った言葉を思いだぜ。お前の気持ちはその程度だったのかと、俺に失望させるな!戻って来い!穢れを恐れるな!穢れはお前が山神の側にいるための資格ぞ!本当に欲しければ諦めるなっ!】
 突然、この静かな世界の中に、嘉吉の叫びが響き渡ってきた。その叫びは風を呼び、葛葉と揚羽の周りを吹いた。
 二人は飛ばされぬように、互いにしっかりと抱き合い支えあいながら、風を受けた。
 風は二人の淡い髪と黒い髪とを混ざらすように下から吹き上げる。

【でなければ・・・・・・俺自身が諦めきれぬ】

 まるでその声と共に、愛しさが天から降ってくるかのように、優しく響く。
『嘉吉・・・・・・』
『嘉吉様』
 揚羽と葛葉はお互いに抱き合ったまま、視線を合わせた。

【穢れは消えぬ・・・・・・だから逃げていても仕方ないのだぞ。子には子の魂がある。お前の居場所はここしかないのだ。戻って来い、諦めるな、逃げるな・・・・・・あの目をもう一度俺に見せてくれ】

 二人は目と目でお互いの今考えていることを悟ると、抱き合っていた体を離し、お互いの手をゆっくりと合わせて、まるで鏡のように向き合った。
 自分とそっくり同じもの。
 異なるのはその瞳の色と、腰まで覆う髪の色だけ。
 取り巻く風がゆっくりと螺旋を描いて、二人を包んでいく。
 髪がなびいて逆立ちながら宙へと、天へと引かれていく。
 互いに引き寄せられ、重なりあい、二枚の鏡が少しづつ近づきまるで一枚の鏡になるかのように、ゆっくりと二人は一つになっていく。
『懐かしいね・・・・・・』
『昔は一つだったんですもの』
『嘉吉は・・・・・・どうするのかな?』
『掟を破ることの罪は受けるつもりですわ』
『ううん、そうじゃなくて・・・・・・』
 揚羽は小さく首を横に振った。
 響いてくる嘉吉の声が、あまりにもせつなくて、せつなくて、あの契りを交わしたあの時の嘉吉の目が忘れられなくて。最初に出会った時は、その目には何の色も浮かんではいなかった。
 懸命に話しても、それが通じているのかどうかさえも分からぬほど、嘉吉は何にも無関心だったからだ。
 初めて口付けた時も、からかうような馬鹿にするような感情しか伝わってこなかった。
 逃げても、逃げても、振り向くと追っても来ていない。
 懸命に走って逃げている自分が馬鹿みたいでひどく恥ずかしかった。
 でも・・・・・・・あの契った時だけは違ったのだ。
 たった一日の間に、嘉吉にどんな変化が訪れたのか知らないけれど、確かにあの時の嘉吉は揚羽を求めていた。
 葛葉ではなく、ただの揚羽である自分だけを・・・・・・だから逃げれなかった。
 逃げようと思えば逃げれた。
 逃げないと約束した意地もあったけれど、本当に嫌なら逃げられたのだ。
 あの時、あそこに留まったのは・・・・・・いったい誰のためだったのだろうか?
 本当に山神のためだったのか?
 本当に自分のためだったのか?
 それとも・・・・・・嘉吉のためだったのだろうか?
 揚羽はだんだんと葛葉に統合されていく自分の意識のすみの方で、必死に嘉吉の声に耳を澄まして考えていた。
 嘉吉に起こった変化は、契りを通して揚羽にも伝わってきていた。
 最後の統合の瞬間、
『好きだ』と、音には出さずにつぶやいた嘉吉の心の声が、揚羽の薄れゆく意識に刷り込まれた。
 もうその声が、嘉吉の声であるとは分からぬほど、揚羽の自我は薄れていたけれども・・・・・・。
 風に巻かれ、消えていく二人の姿の後には、黒い髪、黒い瞳の葛葉と、淡い光のような髪がひとふさ、その手に残されているだけだった。

『誰かが何かを囁いている。何て辛そうな声なのかしら。誰を呼んでいるの?誰に話しかけているの?どうして答えてあげないのかしら。あんなに、あんなに・・・・・・つらそうなのに。今にも泣き出してしまうそうな声なのに』








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★ コメント★
九話目はヒロイン二人組みの心の模様をお届けしました。
ちと前回の嘉吉の叫びを重ねてお送りしております(^−^;)
こんなふうに心の中で葛藤することってよくありますよね〜。いつもそれで迷って、無難な方を選んで後悔するのが私なので、最近はちと反省しております。せっかく迷ったんだから、後悔ないほうを選べばいいのに、どうしていつも後になって悩むんだろうなぁ・・・・・と(笑)


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