花の窟
十日目
『声が聞こえた気がした。誰かの声が・・・・・・俺の呼び声に答えて、泣いてくれていたような気がした。戻ってくるのか?俺の呼び声に答えて?』
目を覚ました嘉吉は、水を求めて岩室の外にでた。
昨日から何も食べていないし、何も飲んでいないせいでひどく喉が乾いて飢えている。外はまだ早いせいか、ひんやりとした空気で少し霧がかっていた。
山神との約束どおり花を踏み荒らすことなく、細い、人一人がやっと歩ける道をゆっくりと踏み外さぬように窟の横にある井戸で顔を洗ってから、ゆっくりとその冷たい水を飲み干した。
喉がすぐにその水で潤っていく。
もう一度ゆっくりと両手でその冷たい水をすくうと、唇をぬらした。
『起きたのか?それとも眠れなかったのか?』
嘉吉の気配に気づいた山神が、御神体から姿を現して問いかけてきた。
眠れぬようすの嘉吉に気遣ってのことだろうが、嘉吉は誰とも話したくなどなかったので、その問いには首を横に振っただけで答えた。
『機嫌が悪いのう・・・・・・その様子では岩室を見なかったようだな』
からかうように山神がくるくると嘉吉の回りを飛び交う。
「岩室って、揚羽が目覚めたのか?」
無視して行ってしまおうとした嘉吉は、山神の言葉に慌てて振り返った。
『さぁな、わしも見たわけではないからな、分からぬよ。ただ目覚めたのは分かる。けれどそれがどちらが目覚めたのかまではわからぬ』
「俺が会いに行ってもかまわぬのだろうか?」
『ぬしの花嫁じゃ、好きにするがよかろう』
「・・・・・・」
嘉吉は「違う」と言うべきか迷って、そのまま何も言うことなく岩室へと急いだ。
揚羽のことは、山神の花嫁としてこの窟へとおいていくことに決めたのだが、やはり一番に会ってあの目を見たかった。
誰よりも先に会いたかった。
音の響く岩室の中を無遠慮に全速力で駆けていき、揚羽の眠っている岩室へと飛び込んだ。
揚羽は床に入ったまま、体だけを起こして入り口の方を見ていた。
「目覚めたのか・・・・・・」
「ご迷惑をおかけいたしました、嘉吉様」
「・・・・・・葛葉殿か?」
丁寧に紡がれた言葉に、嘉吉は絶対に揚羽だと確信して声をかけた気力をそがれた。
急いていた足がピタリと止まる。
「嘉吉様の言われたことの意味がようやく分かりました。わたくし、眠っている間に鬼に会ったのでございます。もっとも、わたくしが会ったものは嘉吉様がおっしゃったように鬼ではごさりませなんだ・・・・・・もう一人のわたくしに会いました」
「揚羽に?」
「ええ、揚羽に会いました」
あまりにも凛とした葛葉の態度と、その目の中に時折見え隠れする嘉吉が惹き付けられる輝きを見つけて、嫌な予感が脳裏に浮かぶ。
「揚羽はどうした?眠っているのか?」
「いいえ、揚羽はもうここにはおりませぬ。わたくしの中に戻ってきました。これもみな全て、嘉吉様がお声をかけて下さったおかげにございます」
深々と頭を下げる葛葉を見ながら、嘉吉は信じられぬ思いで目を見開いた。
(揚羽が消えた?)
「そんなはずはあるまいっ!あれはそんな簡単に消えてしまうような女ではない!」
「いいえ、真でございまする。あれはもともともわたくしの弱さが作り出したもの。わたくし自身がこの気持ちを認めてしまえば、初めからなかったものになるのです。もともとおれもわたくし自身なのですから」
「信じぬ!」
「・・・・・・信じられぬも真のことにございます。ですから、揚羽があなた様と交わした約束ごとをどうぞなかったことにしていただけませぬでしょうか?勝手を申しているのは重々承知しておりますが、わたくしは揚羽と誓ったのです。山神様への気持ちを認めて、ずっと側にいることを。わたくしはあなた様の元へと嫁ぐわけにはまいりませぬ。されど、罪は罪。どのような罰でも受ける覚悟はできております。何卒、あの約束ごとご容赦くださいませ」
再び葛葉が深々と頭を下げた。
嘉吉へと向けられていたその瞳は、凛として穏やかなだけの葛葉の目ではなく、強い意思を秘めただけの諸刃のような揚羽の目でもなく、そのどちらをも併せ持った不思議な目をしていた。
あれが本来の姿であることは、その輝きを見ればわかること。
けれど、嘉吉が求め、惹かれた目は、もうどこにも存在しなかった。
「・・・・・・どのような償いでもするといわれるか?」
嘉吉はもうすでに葛葉を花嫁として向かえる気などなかった。
後継ぎさえてきればいらぬと言っていた言葉どおり、あとは葛葉の、揚羽の望むようにすればいいと思っていた。
けれど、それはすべて揚羽のため。
あの目が消えることを恐れて、すべてを諦めようとしただけのこと。
だが、どたらにせよ、何を選択しようとも揚羽の定めには変わりはかなったのだ。
それは誰も責められぬことだと、頭のすみではちゃんと理解していたけれども、目の前の揚羽ではない目をもった同じ姿を見ていると、たとえそれが愁傷に頭を下げられていたとしても、怒りは、悲しみは、やるせなさは嘉吉の中からあふれ、その心の内にどす黒い嵐をおこす。
知らず、自分の声が低く、冷たくなっていくのを嘉吉は止められなかった。
「嘉吉様のお気の済むように・・・・・・いかようにも」
「では・・・・・・その目が気にくわぬ。その目をつぶせ。俺の前に二度と見せるな」
嘉吉の言葉に、葛葉はゆっくりと頭を上げた。
嘉吉はその視線を避けるようにくるりと背を向ける。
「それで・・・・・・お気がすむと言われるのなら、承知いたしました」
葛葉は静かにふところから、懐中刀を取り出すとスラリと鞘を抜いた。
嘉吉に気づかれぬように、きゅっと口の端を噛むと、刀を目の位置まで引き上げ、ピタリと止めた。
その黒くなった目を何度か瞬くと、ゆっくりと目を閉じ、両手に力をこめて引き寄せた。
『止めよ!』
嘉吉が葛葉の刀の刃を素手で掴んで止めようとした瞬間、山神の怒りを含んだ声が岩室に響いた。
葛葉がゆっくりと瞼をあけると、刃を掴んだままの嘉吉の手が赤く血で染まっていた。
『ぬしらはこの聖域を汚すつもりか!聖域で血を流すなど言語道断な振る舞い!いかように天罰が下ろうとも何もいえぬぞ!』
空気が山神の怒りでピリビリと震えている。
嘉吉は切れた手の痛みで、さらに自分を痛めつけるかのように、ぎゅっと刃ごと葛葉から刀を奪い取ると、その手を握りこんだ。
「かまわぬ・・・・・・俺は天罰など恐れぬ」
血の止まらない自分の左手を刀ごと抱え込むようにしてうつむき、嘉吉が言った。
血は流れ、ゆっくりと落ちていく。
ポタリ・・・・・・・。
聖なる窟に穢れが触れる。
血の滴の落ちた場所、嘉吉の足元の岩から不気味な音が立ち上り、大地を揺るがし、岩に亀裂が走る!
亀裂はそのまますごい音を立てながら、窟中を駆け巡り、窟の外に咲く花々を蹴散らしながら、その中央にある山神の御神体の前でピタリと止まった。
「山神様っ!」
葛葉が亀裂を追って、窟の外へと飛び出した。
嘉吉も穢れの血を流す手を抱えながら、その後に続いた。
自分でも何がしたいのか、何をするつもりなのか分からない。
あの瞬間、葛葉の目も本当にいらないと思ったのだ。けれども、その目が自分の目の前で刀につかれそうになっているのを見たとたん、無意識に素手で刃を掴んでいた。
聖域で血を流すことはご法度とされていることは百も承知だった。もちろん、葛葉もそうだろう。
二人ともおかしくなっている。
人を愛するということは、こんなにも自分を狂わせてしまうものなのだ。痛みで引き戻されてきた意識で、嘉吉は自分の未熟さをもてあましていた。
このまま走って、御神体の所へ行って、何をしたいのだろうか?葛葉は何をするつもりなのだろうか?
穢れのある葛葉はいまは御神体そのものにも近づけないはずなのだ。
嘉吉が追いついた時には、葛葉は御神体の前で佇んでいた。
触れることのできないもどかしさに、ギリギリとはがみしているかのように、悔しげにその顔は前を睨んでいる。
『葛葉、よい。かまわぬ。わしのことはきにするな。このまま崩れはせぬ』
山神の声が御神体の中から響いてくる。
窟の穢れの衝撃で、実体化することもできなくなっているようだった。
「山神様・・・・・・申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬ!わたくしの浅はかさがこのようなことを・・・・・・聖域で血を流すは穢れを持ち込んだも同然だと言うのに、わたくしはどうかしていたのでございます!」
山神と葛葉の後ろに嘉吉が穢れを持ったまま、静かに立ち止まった。
血は花の上に滴を落とし、それに触れた花々が次々と空気の中に霧散していく。
花は山神と同じ気を持つ、分身のような存在である。
花の穢れはそのまま山神へと伝わっていった。
御神体の前で止まっていた亀裂が、ゆっくりと、ゆっくりと、ピシピシと悲鳴をあげながらその巨大な光暈石のしたから亀裂を作っていく。
「嘉吉様!穢れを、血を、すぐにお清めくださりませ!このままではっ!」
「・・・・・・いっそこのまま、何もかもなくなってしまえばよい。その方が揚羽が一人でいくのに寂しくなかろう。山神殿、揚羽は消えてしまったぞ」
ゆっくりと嘉吉が御神体に歩みよる。
ポタリ・・・・・・ポタリと血が流れ落ちるのをまるで清めるように、天からポツリポツリと雨が降り出した。
『知っておるよ』
「知っていて、何も思わぬのか?」
『揚羽は消えたのではない。今も葛葉の中にいるのがぬしには分からぬのか?消えてもおらぬ揚羽のために、ぬしは天を敵とするつもりか?このままではぬしに天が怒りを落とすぞ』
「・・・・・・それも良かろう」
雨で清めるよりも多く、血が流れる手で、嘉吉は山神の御神体へと触れた。
触れる先から光暈石が砕けていく。
「お止めください、嘉吉様っ!」
止めに入った葛葉の腕を、嘉吉が力任せに払いのけた反動で、葛葉の細い体が横になぎ倒される。
嘉吉はそれを気にするふうもなく、御神体へと流れていく自分の血を見ていた。
『嘉吉・・・・・・ぬしには天から怒りが降りてくるぞ』
怒りを押し殺したような声で山神が憎しみをもって声を響かせた瞬間、雨雲の間から光を放っていた天を走る雷の束が、大きく唸り、嘉吉の真上に落ちてきた!
嘉吉は天を振り仰いで、それを受け止めるつもりだった。
何もかもどうでもよかった頃の自分のように、その胸の中にはぽっかりと空洞が空いているかのように思えた。
さらに、あれほど嘉吉を縛り付けていたはずの掟すらも、今は嘉吉を縛ってはいない。
嘉吉にはもう、この世にしがみつかなければならないものが何もなくなってしまったのだ。
雷は竜のように意思をもってうねり、大きな咆哮をあげて嘉吉を襲った。
雷が嘉吉を鞭打つ瞬間、ふいに嘉吉は後ろから背を押されて、数歩前に押し出された。
雷が落ちた先で悲鳴が上がる。
嘉吉を庇った葛葉が、そこには倒れていた。
横たわる葛葉の髪の色が、漆黒のような黒からだんだんと淡い色へと変化していく。
嘉吉は震える指先で、その髪に触れた。
光そのものにも思えるような髪が、サラリと嘉吉の指から零れ落ちる。
「・・・・・・揚羽?」
呆然と立ち尽くす嘉吉の上に、再び雷が鞭打った。
嘉吉の体はそのまま葛葉の・・・・・・揚羽の上へと重なり落ちていく。
嘉吉は最後の意識を手放した。
『呼んでる、呼んでる。聞こえる、聞こえる。あなたの思いが・・・・・・私を求める声が。だから消えれなかった。だからここにいる。泣かないで、泣かないで。そんな悲しい声など聞きたくないから・・・・・・』
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★ コメント★
とうとう残すところあと一回となりました〜。
うわ〜これが終わったら月下美人を書かねば(>.<)また過去に逃げたらごめんね、ioちゃん(笑)
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