花の窟
雨は降りつづけた。
聖域の穢れをすべて流し尽くすかのように、木々の新たなる再生を促すかのように、山が崩れ落ち、そこが豊かな森になるまで、雨は止むことなく降りつづけた。
聖域のすべてが消えうせたあと、奇跡のような再生が始まったのだ。
【そびえ立つ山の聖域は野の森になり
神は地上に降り立った
神の姿はなく つねに側におられる
永遠に黒髪の巫女が見守る中 森におられる
人は神にふれ 神は愛せる喜びを得た】
「はい、おしまい。もうお眠りなさい」
パタンと本を閉じて、母親は子どもの布団を首元まで引きずりあげた。
もう外は冬である。
夜はひどく冷えた外気が、木戸の向こうから漏れてくる。
寝物語にと読んで聞かせている本を子どもの枕もとへと置いた。
「まだ眠くないよ、母上」
子どもが不満そうに、布団の中から顔を出す。
ぷっくらと膨らませた頬を両手で包み込みながら、母親は言い聞かせるように額をコツンと子どもに合わせた。
これは互いに分かり合いたい時にする、彼女の癖である。
「明日は父上様と一緒に、森の神様へとごあいさつに行くのでしょう?早く眠らないと起きられなくくるわよ、。それでもいいのかしら?」
「僕、絶対に起きれるもん!それに森の神様にお会いするなら、ちゃんと森の始めの話を知っといたほうが、うんといいのじゃないかしら?」
「明日、道々、父上様に聞けばいいじゃない。なんたって、父上様は森の神様とお友達なんですもの」
母親が自慢げに腰に手をあてて、を見下ろす。
「父上様が森の神様と友達っていうのは本当なの、母上?父上に一度尋ねたら、友達じゃないっておっしゃってたよ?よく喧嘩するんだって」
空知が疑うように母親を見る。
母親は淡い色の目を優しく細めて、ふふふと綺麗に笑った。
さらりと流れる髪はまるで光そのもののようである。
「喧嘩するほど仲がいいのよ。父上様は昔、神様に大きな助けを得て、たくさん借りを作ってしまったから恥ずかしいのよ。口では嫌いだっておっしゃってるけど、本当は大好きなのよ。考えてもごらんなさい。神様を嫌える人なんていると思う?」
「父上は何を森の神様にお借りしたの?」
「私が父上様の花嫁になることを認めてくださったのよ。父上様はそりゃあ泣いて喜んだものよ」
母親の目がいたずらっぽく輝く。
「花嫁になるのを認めてくださったって、だって、元々母上は父上の花嫁になるために、昔の聖域の窟におられたのでしょう?そんなの変だよ」
「これは空知にだけ教えてあげる内緒の話なんだけれど、私ね、一度死んじゃったの。それを神様が父上様の願いとおりに生き返らせてくださって、花嫁として連れて帰れるように取り計らってくださったの。ついでに母上のお姉様も助けてくださったしね。本当に偉大なお方なのよ」
森の神様の話をするときだけ、空知の母親は空知の知らない目をすることがあった。
ふとそれを見て空知が不安になると、決まって父親が奥から声をかけてくる。
「揚羽、もう遅いのだから体にさわるぞ」
体の弱い空知の母親、揚羽のことを気遣って、父親の嘉吉はいつも心配そうに母親の側についている。
「大丈夫よ、これぐらい。そんなに心配しないで」
空知に優しくおやすみの口付けをすると、揚羽は奥の嘉吉のいる部屋へと戻っていった。
揚羽の体は少しの熱で倒れこむほど弱くできている。
これは葛葉から離れる時に、唯一、揚羽が背負うことになったハンデてあるが、そんなことなど気にならぬほど、揚羽は幸せなのだ。
生まれた記憶も、葛葉と一つであった記憶も、山神を愛していた記憶も、すべて失ってただ嘉吉の思いだけを刷り込まれた揚羽が目を覚ました時、山神は崩れかけた聖域の最後の力をすべて揚羽のためだけに注ぎ込み、唯一残されていた淡い髪のひとふさから再生した。
そのまま聖域から力は消えうせるかのように思われたけれど、不思議なことに、聖域の崩れとともに霧散したはずの山神は降り続く雨の中、一本の樹とともに再生し始めた。
その樹は見る間に大きくなり、降りつづける雨をすべて吸収して、やがて森になった。
それが新たな聖域になり、今は神は上ではなく地に住まうようになったのである。
そして揚羽という激しい心のなくなった葛葉は山神の側に巫女として残った。
ただ穏やかな日々が続くように、穏やかな愛を持ったまま、今も聖域で山神と嘉吉たち一族のために毎日祈りつづけている。
すべてが平和で心穏やかに過ごす日々が続いている。
ただ・・・・・・すべてを失ったあの日のように雨が降り続く日が訪れる季節になると、嘉吉は切なくなる。
初めて揚羽と、山神と出会ったあの岩室を思い出す。
あのむせ返るような花の匂いに満ちた窟を懐かしく思う。
あの場所で、本当の意味で生まれ、呼吸し始めた嘉吉が笑っている。
あの瞬間から、嘉吉は生き始めた。
人を愛するということを理解できた。
時がたち、揚羽との間に後継ぎもでき、すっかり夫婦が板についている二人だが、今もあの頃と寸分変わらず、嘉吉は揚羽を大事に思っている。
あの時揚羽に出会わなかったら、あの時揚羽が消えてしまったままだったなら、嘉吉の心は永遠に閉じたままだったことだろう。
なんの気まぐれか、それとも見ていられなかっただけなのか、山神のすべてを犠牲にしてでも貸してくれた力のおかげだと嘉吉自身ちゃんと理解しているのだ。
心の底では感謝もしている。
ただ会うとつい憎まれ口をきいてしまいたくなる。
「・・・・・・たまには礼でも言わねばな」
となりで眠る揚羽の寝顔を愛しく思いながら、嘉吉は久しぶりに会う山神のことを思って、たまには素直に礼でも述べて驚かしてやろうと心に決めた。
山神の光のような目が、大きく見開かれて自分をくいいるように見る姿が目に浮かぶようで、嘉吉はそっと小さく笑いをもらした。
おわり
★ コメント★
終了してしまいました!とうとうラストですっ!
あぁ〜次何出そうかな(笑)
このラストが皆様の期待を裏切っていたら、と思うとちょっと不安ですが、ハッピーエンドなのでお許しくださいね(^−^;)
いつもラストが難しいなぁ〜と思うつぶらです。
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