ココニイルコト
ー前編―


 思い出すのは真摯な眼差し。
『泰志さん!行かんといて!俺を置いて行ったらあかん!泰志さん!』
 大きな黒い目いっぱいに涙を溜めて、走り去る車の後を追いかけてきたのは・・・・・・。
 どれほど、車を止めて飛び出して駆けより、慰めてやりたかったことか。
 大事な大事なたった一人の弟である達也を置いていくことだけが心残りだった。
 あの頃の泰志は「一緒に来るか?」と問えるほど強くもなく、平気で嘘をついて慰めの言葉を言えるほど大人ではなかった。
 胸の内にある焦燥感を振り切って、ただ、自分自身のわけもわからぬ息苦しさから逃れることだけを考えた。
 父も母も嫌いではない。かなり厳しいけれども、それでもそこには愛情は十分にあったことは知っていた。
 ただどうしても、自分とは見るものも、話すことも、許すものも違うことをいつも感じて寂しさだけが募っていった。
泰志が成長するにつれその溝は深くなり、やがて家族でありながらお互いはまったく別の世界に住んでいることに気づいた。
 もちろん進む方向も、目指す場所も違っていた。
 このまま行けば意味もなく父母を傷つけるだけだと気づいた泰志は、家を出る決心をしたのだ。
 ただ、その決心に自分を慕う弟の心のうちのことまで考慮する余裕などなかった。
 だから未だに思い出す。
 もう何年も前にあの堅苦しい家を捨てると決めて、飛び出してきたはずなのに、達也のあの目だけがずっと記憶の底にこびりついて離れない。
 可愛い、まだ無邪気な小さな弟に、長男でうる自分の重荷をすべて被せてきてしまった罪の意識からか・・・・・・それとも人としての良心からか。
 時折あの場面は泰志の夢を訪れ心を痛ませる。


『503号室の川瀬泰志さん。お電話が入っておりますので、至急受け付けまでおいでください』
 寮内に突然響いた放送に、泰志は心当たりがまったくないながらも受付へと急いだ。少し幼い感じのする顔立ちを隠すように伸ばされた前髪が、走るたびに視界の邪魔をする。
 何ともいえない嫌な気分が心の内から這い出てきていた。
 家を飛び出す時に、両親に『二度と戻るな!もう親でも子でもない、連絡先も知らせるな!』と怒鳴られたとおり、泰志は自分の行き先を誰にも知らせていなかったのだから。
 ただ・・・・・・時々、月に一度は無記名のまま、達也へと手紙を出したりしていたのだが、それでもこの大学のことは何一つ書いてはいないはずなのだ。
「・・・・・・もしもし?」
 用心深く受話器の向こうに問い掛けてみる。
『泰志さん!良かった!やっと掴まった!』
 響いてきたのはひどく焦った従兄妹の春子の声だった。
「春子?どうしてここがわかったんや?」
『達也宛の手紙の消印を見て、その辺の大学全部に問い合わせたの!何で出て行っちゃったりしたのよ!馬鹿!おかげで今、こっちは大変なんだから!達也が大変なんだから!おじ様もおば様も大変だったんだから!』
 電話の向こうから泣きながら春子が叫んでくる。
「落ち着けよ。何がどう大変なんか分からんやろーが」
『お・・・・・・おじ様とおば様、先月亡くなられたの』
 春子の泣きながらのつぶやきに、泰志の思考が一瞬真っ白になった。ガンガンと頭が痛みだす。
 自分のものではないような、冷たくなった指先で何とか受話器を握り締め直すと、泰志は大きく息を吸い込んだ。


 空港で出発時間を待ちながら、泰志は椅子に浅く腰掛け、はみ出した長い足をイライラと小さくゆすった。
 黙ったままの泰志に春子が何度も問いかけながら、あらかたのことを説明し終わると、泰志は何も言わずに受話器をおき、そのまま荷物をまとめ空港へと向かったのだ。
 普段は待ち時間など気にすることのない泰志が、苛立たしげに足を何度も踏み鳴らす。
 両手を額のところで祈るようにあて、俯きながらただ達也の無事だけを感謝していた。
 春子は達也の心がおかしいと言った。
 事故で肉体は奇跡的に助かったものの、その後の体の回復とは正反対に心の方が病んでいっていると・・・・・・。
 一日中、誰とも口を聞かず、何も食べず、夜もほとんど眠らないらしいと電話で春子が告げた。何かを待っているかのように、顔はずっと窓の外へと向けられたまま、誰のよびかけにも答えることはないと。
 泰志は胸が締め付けられるようだった。
 たった一人残されてしまった達也。
『達也・・・・・・今、心が壊れかけてるの。事故でおじ様とおば様が亡くなったのは自分の責任だって思って自分を責めてる!何も食べないし、何もしゃべらないし、あたしのこと見ようともしない。けど時々、泰志さんの名前呼ぶの・・・・・・うわ言みたいにつぶやくの!お願い!帰ってきてあげて!あたしじゃダメなの』
 叫んで泣き出した春子の言葉が耳から離れない。
 不安と喪失感で焦りはさらに募り、その思いをかき消すために、飛行機を降りてから泰志は走り続けた。
 二度と戻らないと心に決めていたあの場所へと、一秒でも早く帰りつくために、泰志は走れるところはひたすら走り続けた。
 自分で切り捨てたはずのあの家を失うことが、こんなに自分の心のバランスを崩すほど大事なものだとは気づかなかった。泣きそうに歪んだ達也の大きな瞳が、脳裏の奥でじっと悲しそうに泰志のことを見ている。
「達也・・・・・・」
 泰志は愛しい名前をつぶやいた。


 夕方頃、病院についた泰志は、もう薄暗くなり始めてきた廊下を急ぎ足で病室へと向かった。
「・・・・・・達也?」
 そっと音を立てないように扉を開けて中に滑り込むと、泰志はそのままベッドの脇へと近づいた。
 泰志がベッドの側に歩いていっても、達也は無表情な横顔を見せるだけで、視線を動かそうともしない。無視しているのではなく、気づいていないのだ。そこに人が存在することに。
 自分以外のすべてを世界から拒み消し去っている。
 女の子みたいだった優しく可愛らしい面立ちが、成長の段階として、精悍な大人の顔立ちに変化しようとしているせいもあるかもしれないけれど、それでも昔の達也からは考えられないような、憔悴しきった大人びた横顔だった。
『心が壊れている』と言った春子の言葉が脳裏の片隅を過ぎったけれど、泰志は努めて昔と同じように愛しさを込めて、達也に触れ、その無表情な横顔を軽くはたいた。
「久しぶりやな、達也。元気しとったか?」
 そう言って顔をのぞきこんできた泰志の姿が、達也の虚ろな瞳の視界を遮ったとたん、達也の体がビクリと震えた。チリッと小さく電気が走ったみたいに達也の体は硬直し、ビクリと震えた時に跳ね上がった手は、そのまま宙で止まっている。
「・・・・・・達也?」
 その手を力を込めて握ると、泰志はもう一度呼びかけた。
 ゆっくりと達也の視線が横に立つ泰志へと動いてくる。
 泰志の姿を確認すると、まるで初めて会う人間を見るように、目をひらげて泰志を凝視している。
「何て顔してんねん、達也」
 泰志は何でもないふうに笑ってみせて、達也の額に自分の額を軽く押し付けた。
 電気を消したままの病室。
 さらにカーテンも締め切られた薄暗い部屋の中で、微かな光だけを頼りにお互いの視線を絡めあう。
「・・・・・・た・・・・・・さん?」
 少しかすれた震える声が、乾いた達也の唇からもれてくる。
 その震えは泰志が触れている額にまで伝わってきた。
「ああ」
「・・・・・・泰志さん?」
 もう一度達也が確認するように自分の名前を呼ぶのを、その頭を胸の中へと引き寄せることで泰志は答えた。昔と変わらぬ達也の自分を呼ぶ言葉に、知らず笑みがもれてくる。
 達也は泰志のことを『さん』づけして呼ぶ。幼い頃から何かにつけ『兄さんなんだからしっかりしないさい』といわれることを鬱陶しく思った泰志が、達也にそう呼ぶように言い聞かせていたからなのだが、なんだか今はその呼び方を聞くとホッとする。
 泰志は達也の顔を自分の真正面へと移した。
「なんや・・・・・・ちゃんと分かってるやないか」
 小さく安堵の息をもらし、達也の髪をくしゃりとなぜてから、もう一度その小さな頭を自分の方へと引き寄せた。
「・・・・・・泰志さん」
「おう、遅くなって悪かったな。もっと早く来ようと思ってんけどな、なんせ聞いたんが今朝やからな、これで精一杯やった。悪かったな・・・・・一番おらなあかん時に側におらんくて」
「泰志さん・・・・・・泰志さん・・・・泰志さん・・・泰志さん!」
 達也は搾り出すように泰志の名を呼ぶと、がむしゃらに飛びつき、声をあげてわんわん泣き出した。
 困った顔で達也を受け止める泰志に、言葉を挟む暇も与えないでわんわん泣きつづけた。
 泰志の服が達也の涙でぴっしょりと濡れた頃、達也の見舞いに、従兄妹の春子とその母親である泰志たちの叔母が訪れた。二人は達也の泣き声に驚いたらしく、病室に駆け込みそこに泰志の姿を見つけホッと息をもらした。
「泰志さん、来てくれたんだ」
 春子のその言葉に、達也が体をピクッと震わせ、ピタリと泣き止んだ。
 今まで泣いていたというのが、その頬を伝う涙を見ても疑ってしまいたくなるほど、達也の顔には何の表情もない。
 怪訝に思った泰志の視線で、病室中の空気が一瞬にして凍りつき、皆が皆気まずそうに視線を達也から逸らす。
「あ、声が聞こえてきたんで、どうしたのかと思ったの。泰志さんがいてくれるんなら安心だよね、母さん?」
 その場の雰囲気を和まそうとするかのように、春子が明るく母親に同意を求めて振り返った。
「そ、そうね。泰志さんがいてくださるなら、私たちはまた後にでも・・・・・・泰志さん、達也さんのことお願いしますね」
 縋るように泰志を見たまま、叔母が頭を下げる。
 慌てて自分も頭を下げた泰志がチラリと盗み見た達也の表情は、ピクリとも動かない。
 最初に見たときと同じで何もかもを拒むように、その視線はどこも見てはいない。
 このままでは危険だと泰志の中で何かが告げる。
「ええ、達也のことは俺が責任持って面倒みますんで・・・・・・体が大丈夫そうやったらもう退院させようと思てます。その手続きだけお願いできたら」
「それは構わないけれど、その後はどうするの?」
「とりあえず、こっちの家で今まで通りおろうと思てます。俺も大学辞めてこっちに帰ってきますんで」
「大学辞めてって・・・・・・」
「そうしなあかんような気がするんです。今のこいつ見とったら、今はそれが一番やて思います。大学はいつでもいけるから」
 ニッコリと笑っていう泰志に、叔母と春子は視線を達也へと向け、苦く笑うと納得したように頷いた。
 大袈裟でもなんでもなく、達也にとって今は泰志が側にいることが一番なのだと思える。
 逆に泰志がまた大学に戻って達也の側を離れてしまったら、またおかしくなってしまうのだと言うことも。
 短く今後のことなどを話して、叔母たちが病室から出ていった後、泰志がため息をつき達也の方を振り返ると、達也の頬は涙でぐっしょり濡れていた。
 慌てて駆け寄ろうとした泰志の方に強く手をのばして、達也は再び声をあげて泣き出した。
「何で泣くねん?何がお前をそんなにおかしくしとんのや?」
「行ったらあかん・・・・・・俺をおいていかんといて・・・・・」
「どこにも行かへんて、さっき叔母さんに言うたの聞いてへんかったんか?大学は辞めてお前の側におるよ」
「嘘や!泰志さん、そない言うて俺のこと置いていったやん!もう二度と戻ってけーへんつもりやったくせに!」
「・・・・・・悪かった。お前に俺の背負わなあかんもん全部背負わせてしもて、ほんまに悪かったて思てる。だからもう二度とどこにも行けへんつもりや。今度は嘘やない」
「嘘や!嘘や!ほんまは俺のこと嫌いで出ていったんやろ!俺が泰志さんのこと『好き』やなんて言うたから!」
「はぁ?何言うてんねん。そんなことぐらいで出ていくわけないやろ?」
「言うた途端、泰志さんがおらんくなった!母さんも父さんもだから死んだんや!俺が泰志さんのこと好きやて言うたら、『こんな子知らん、こんな恥ずかしい子持って、父さんも母さんも死んでしまいたい』って言うたんや!その後、俺のことドライブに連れ出して・・・・・・あの事故に合うた。父さんも母さんも俺を道連れにして死ぬ気やったんや!」
 泣きながら叫ぶ達也が突然ウッと口元を抑えてうめいた。
 事故の記憶は今もなお達也を苛む。自分を責めるたびに、体が生きることを拒否するかのように、何度も何度も吐き気をもよおし、苦しさに咽ぶ。
 何も食べていない胃からでるものはなく、黄色い胃液がべっとりと衣服をぬらした。
 泰志は慌てて達也の背をさすり叱咤する。
「そんなわけないやろ!そんなことぐらいで親父もお袋も死ぬ気になるわけないやんか!俺かって逃げたりせーへん!」
 うめき声がだんだんと涙混じりになり、再び泣き出した達也の顔を両手で挟みこみ、自分の視線の真正面に据えると、泰志は半分怒ったように達也を睨みつけた。
「・・・・・・嘘や」
 達也の呟きは小さく、それでも泰志を否定する。
「嘘とちゃう!俺が出ていったんは、あの家におったら自分のやりたいことができへんて思たからや!お前に好きやて言われたぐらいで何で俺がおらんくならなあかんねん!俺かってちゃんとお前のことは好きや!見捨てたんとちゃう!」
「だって・・・・・・俺の好きはこういう『好き』なんや」
 泰志の唇に噛み付くようなキスを送りながら、まるで挑戦してくるかのように達也が上目使いに泰志を睨んだ。
「達也!」
 口付けられた驚きに、思わず泰志は目を見張った。
 達也の目が『ほら、やっぱり』というようにじっと悲しみを含んで泰志を睨みつづけている。
「・・・・・・気持ち悪いんやろ、俺のこと」
「・・・・・・」
 泰志は唇を拭う仕種をやめ、じっと達也を見下ろした。
「ええで・・・・・・もう帰れば?二度と会ってくれなんて言わへん・・・・・・俺は一人でも平気や」
「―いつからや?」
「そんなん俺の方が知りたいわ。物心ついた時から目の前におるねんで。ずっと泰志さんだけ見て、目標にして追ってきた。泰志さんの側に誰かおるのも、ほんまは我慢できひんぐらい嫌やった。もう一回あんな思いするぐらやったら、軽蔑されるぐらいやったら・・・・・・もう二度と会わへんほうがましや!」
 自分の思いを吐き出すように達也が叫んだ。
 潔い強さ。全部を望めないならば、何もいらないと言い切れてしまう達也の強さが泰志は好きだった。
 泣きながら、それでも自分から目を離さない達也に、泰志は静かに決意を固めると触れるだけのキスを返した。
「ほんなら・・・・・・お前にやる。全部やる。遠慮せんと受け取れ」
「・・・・・・ほんまに?」
「ああ、ほんまや」
「何で?」
「何でって言われてもなぁ・・・・・・」
「理由もなしに実の弟と恋愛できるわけないやろ、アホ!」
「う〜ん・・・・・・強いて言うなら、お前と同じ理由かな?二度とお前に会えへんのやつたら、俺をくれてやるほうがましや」
「ほんまに?そんな理由だけで俺のこと好きになれるん?」
「俺がお前に嘘ついたことあるか?」
 笑ってそう言った泰志に向かって、達也は何度も頭を振った。
 その大きく見開かれた黒い瞳から、涙が再びポロポロと溢れ出す。瞬きもせずにじっと泰志を見つめたまま、涙は達也の幼い頬を伝い続ける。
 泰志はそっと腕をのばすと、初めて兄弟としてではなく、達也を愛しいものであると確認するかのように抱きしめた。泰志のその思いが伝わったのか、達也はさらに声をあげて子どものように泣き出した。
 何年も何年も持ち続けた思いが、奇跡のように実った嬉しさと、誰かに自分は間違った思いを抱えていないと認めてもらいたかった願いとが叶い、達也は初めて安心できたのだ。
 涙は後から後から溢れてくる。
 達也の中にポッカリと空いてしまった心の隙間を埋めつくそうとするかのように溢れ続けた。



つづく
Next


★ コメント★
後編に続きます〜。
ちょっと作品数が少ないので、違う話も載せてみようかなと思って前後編プラスおまけの短いのをお送りしま〜す。
ちなみにこの子たちははるなちゃんのホームページ開設祝いに駆けつけたキャラたちです(^−^)
Novel Topへ
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送